J 「合楽理念の体得。御理念を現す。」
昭和五十七年六月二十日 朝の御理解
御理解 第七十六節 「人間は人を助けることができるのはありがたいことではない か。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。 人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けて もらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心 得て信心せよ。」
先だってある方がお話をしてましたが、村うちのある人が、最近創価学会に入っておる。その創価学会のすすめに見えたとこういうのである。
勿論、創価学会になろうとも思わんけれども、も、とにかく、あまりにも見事なお話をされるのでびっくりしたと、村うちでも、まあ、どっちかというと程度の低い人としてみんなが扱うような人だけれども、その、一度(ひとたび)ま、教理というでしょうかね、その、創価学会はこんなにも素晴らしいんだという話をね、もう、とうとうと、それこそ三十分間位お話をしたという。もう、これには私も驚いた、というお話を聞きました。ね、やっぱりもう、勉強があるんだそうですね。そしてそれを覚えると信心の位が、こう出来て行くんだそうですね。
試験があるんです。ですからどうでも、やっぱり覚える。そしてそれを伝える。
金光様の信心ではこういうふうに申しますよ、金光教の助かりはこうなんですよというと、も、その事に対しては全然ね、只、自分が習うとる事を、ま、とうとうと話をするだけだったという事です。けれどもね、私は、金光教の信者は只、新たかなおかげが受けられる、話を聞いて助かる道、祈念祈祷ではないというふうに知ってはおるけれども、なら、話を聞いて助かるけれども、自分が話をして人に伝えていく内容を持たないという事です。いわゆる勉強不足だと思いますね。
人を助ける事が出来るという事は、勿論、自分自身が、なら、病気なら病気でおかげを頂いてね、お話をする。ですから、ま、最近は特に癌が多いですけれども、本当に不思議な不思議なおかげを皆が頂いておる。けれどもね、おかげを頂いただけで、もう、お礼参りがすんだら、それでおしまいというよな人が多いです。どうしてかというと、結局話を聞いて助かるというのじゃなくて、只、お参りをして助かるというところにとどまっておるからだと思うです。ね、
勿論、なら、話がどんなに上手に出来たところでです、自分自身の助かりがないならば、ね、それによってその人の生き方が変わる、物の見方が、考え方が変わる、幸福とはこういうものが人間の幸せ、幸福だというふうに、その心が助かっていくに従っておかげも勿論、伴うてくるというのが、お道の信心ですけれども、その、例えばここでは御理念という事を申しますけれども、なら、果してその御理念を人にもわかりやすく伝える事が出来るだろうか。皆さん一つね、私の頂いておる金光教、合楽の信心、私の頂いておる合楽理念といったような、まあ、題でね、一つレポ-トを書いてみられたらどうでしょうか。どの程度にわかりどの位に人に確信をもって伝えられる事が出来るかという事。
私は昨日、一寸驚きましたけれども、昨日研修の時に竹内先生が、ま、ここでは、0少の先生方に各々の合楽の信心をあらゆる角度からレポ-トを出せというふうに、ま、言われておったのでそれを見せてもらいました。ところが、あまりにも素晴らしいまとめが出来とりますから読みますというて、昨日末永錦也先生、それから恵介先生、それから中島泰郎先生、いわゆる0少での先生方ばっかりなんです。もう、私は聞きながら驚いた。いう事がない。そこはこういうふうに変えたらというところがない。もう、私は、も、感動してしまってここから降りてから一人一人手を握ってから有り難う、有り難うというてまわりたい位に、も、これだけの事を体得、いうならばいつの間に勉強が出来とった・・・・研修の時には黙って聞とるだけだけども、もう私は、あまりの見事なレポ-トに、も、驚いていまいました。これは、そして、ただね、それが理論的なものではなくて、その三人の中から感じられた事はね、親先生が言うておる事が本当だと確信して書いておるという事です。ですから、これがいうなら、血にも肉にも、だからそこへんのとこの修行がなかなか、又、難しいわけですけれども、なった時にはじめて天地の親神様が、もう確かにこの世には天地の親神様の氏子可愛いの一念だけ、その働きだけしかないんだという事か体験づけられてきた時に、もう、立派な取次者であり、又、先生達自身も助かる事であろう、自他共に助かる事が出来る。
これだけの文章を、これだけの事を人に、ぞっこん自分のものにマスタ-しておるんですからおかげが頂けれる。
私は本当に何か、ね、本当に私の信心をこれほどに、ま、的確に頂いておるという事に、本当に一人一人手を握ってまわって御礼を言いたいごたる衝動を感じましたです、はい。ですから私、今日は青年大会がございますので、これを、ま、ちょっとしたパンフレットふうにして今日の青年会の方達に一部づつあげられるようにしたらどうだろうか、というて昨日、ま、申しました位です。ですから出来たら皆さんも、まそれを見て下さる事で、ま、こんくれな事なら私どんも知っとると言う人があるでしょ,読んだだけなら、けれどもそれを文章にまとめるとか人に話をするという事はなかなか難しいです。これはそれこそ、創価学会じゃないですけれども、勉強がいる。 合楽では、いうなら、研修が沢山ございます。そして,いわゆる御理念に基づく素晴らしい体験を皆さんが語られますけれども、そんなら、まとめて合楽の信心とはと皆さんに問われた時にどう答えるか。
そりゃ、いっぺん参って見なさい、おかげ頂きますというだけではね、相手が聞いて下さるなら、も、それこそ、ね、合楽の信心を語られるそういう勉強が必要。
これはね、覚えようと思わなかったら覚えませんです。勉強です。二、三日前、今宮崎から、もう一ケ月余り若い修行生の人が来ております。
四、五日前、十日位前でしたか、少しはわかったかと私、ここから聞きましたら、わかりません。そうじゃろの、なかなか一ケ月位じゃわからん。ま、しっかり頑張らにゃと言うて今度は二、三日前私が又問いました。祈念詞覚えたか、拝詞、ね、こうやって奏唱する、覚えとりません、ち、覚えとらんち、一ケ月も一緒に御祈念しよるとに覚えとらんちはあるか、あげんとはもう、覚えようち思うたら一日で覚えられるよ、今日一日で覚えなさい、と言うて私は、まあ、強く申しました事でした。
信心の稽古というてここに何しげ来とるか、拝む道も知らん、拝む拝詞も、いうならば、覚えとらんちいうような事でどうするかというて、実際は私自身もまあだ覚えとらんばんてんね。と言うて話した事でした。私はまあだ覚えとらんです。知らんです。第一覚えようと思うとらんです。これはね、皆さん、大祓いとか祈念詞を一生懸命一心不乱に奏唱するという事はね、神様との交流の一つの手立てなんです。だから皆さんは覚えなければでけません。又、それを心ゆくまで、繰り返し、繰り返しあげなさる。そのうちに神様と、はあ、これが神様との交流だろうと思うようなおかげが頂かれます。私は、だからね、私の場合はそれが、なら、唱えなくても覚えなくてももう、覚えようとも・・・・もう私どん三回変わりましたかね祈念詞が。
一番はじめまあだ椛目時代でしたけどもそん時に一日で覚えてしまいました。
覚えようと思ったらすぐ覚えるです。けども、ここに修行に来ておってそれを覚えんという事はいけない。本気で今日一日で覚えなさい。ね、実は私自身もね、私自身は、まあ、皆さんがあげておられるとを、ま、ついては行くけども一人であげろとは私はあげきらん。おそらく一生覚えんだろうと、覚えようと思ってないからね、それは私の場合は、もう、御神前に座ったらもう、その場で神様との交流がはじまり、いや、御神前に座らなくてもね、だから、そういうおかげを頂いたら何もいらん。柏手もいらん、というのが私の持論なんですげどね。
覚えようと思うたら覚える。皆さんが覚えようと思わなければ御理念のマスタ-は出来ませんです、ね。だから、たまにはねそれを文章にしたり、ね、塗板に毎日あのまとめが掲示されます。ね、なかなか皆さん忙しい。それを写して帰られてという事なんか、なかなか出来なさらんけれども、たまに時間のある時位はね、読むだけではなくて写していく。又は、自分が、いうならば、そのレポ-トの一つも書いて人に伝える為の、いうならば勉強をなさらなければいけない。
覚えようと思わなければいつまでたっても覚えません。もう皆さん覚えんでよいなら、ま、いうならね、も、私は目をつぶれば神様と交流するというものがあればいらないね、けれどもやはり、祈念詞を本気で覚えようと思わなければ覚えられないし、又、なら、御理念に基づく助かり、ね。それをならば、理論的にというかね、お話出来る一つの順序というかその、話し方というようなものをです、只、合楽の御比礼をとにかくおかげ頂いて助かった、助かるだけじゃなくてね、こういう信心だから、はあ、なるほどとそれが合楽がいく、それをマスタ-しただけでなくてです、なら、昨日の若い先生の信心をですね、只、決して空論とは思わない。
親先生が言うておる事を本当に確信しておるというものが、その表現の中から感じられる。だから、私が言うておる事が本当だとわかっただけでなくて、それが本当だとわかったら自分の血に肉にしていくというところから、いよいよ神様の絶対信が生まれてくる、ね。その絶対信を又、語っていけれるようになったらもっと素晴らしいけれども、その手前としてです、皆さん一つ自分の信心、御理念による00といったようなものをです、まとめてみられたらどうでしょうか、ね。
そして自分がどの程度に御理念のマスタ-が出来とるかわかる事も、これは人を助けるというても金光様の御信心はどこまでも話を聞いて助かるのだから、又、話をして助かるという事もいえるわけですよね。
どうぞ。